The LoveLive! Must Go On
12/27 10:45 末尾に追記しました。
この記事は、ラブライブ!Advent Calendar 2016 25日目の記事として公開されました。
突然ですが、 ラブライブ!は好きですか?
μ'sやAqoursのことは大好きですか?
今年ラブライブ!というテーマでAdvent Calendarを作ったのは、端的に言うなら、自分以外のその 「好き」の気持ちが知りたいから でした。
1日目の記事に書いたように、今年2016年は、 μ'sがファイナルライブを開催し、Aqoursが本格的に活動を開始した年でした。
いまだからこそ、書かなければならないことがあると思いました。 いまだからこそ、書かなければならないことを抱えている人が、きっとたくさんいると思いました。
結果的に総勢21人の方にご参加いただき、様々な視点でラブライブ!について語っていただいたり、ラブライブ!をテーマにした確率論やソフトウェアに関する記事も投稿いただいたりしました。 若干まだ1記事だけ未完成のものもありますが 、きっと年内には投稿されることでしょう!
本当にありがとうございました!
最後なので、今回は少し大げさに 「ラブライブ!って何だ?」 というテーマで書きたいと思います。
ラブライブ!って何だ?
アイドルマスターでもなく、シンデレラガールズでもなく、セブンスシスターズでもなく、 「なぜラブライブなのか?」 が、わたしにとっての長い間の疑問でした。
実は、このテーマで文章を書くのも初めてではありません。 下のリンクは、2年前に書いたラブライブ!に関する記事です。
このときに挙げた差別化要因は、
- 男性がほとんど登場しない世界
- 9人という人数
- ガバガバな設定
- 畑亜貴と他作曲陣による楽曲
- ご都合主義的展開
- 2次元と3次元を繋ぐライブ演出
というものでした。
また、下のリンクは、去年書いたラブライブ!に関する記事です。
この記事では、次の項目を差別化要因に挙げました。
- 体育会系的・全体主義的なストーリー
- 歌詞やキャラ付けがもたらす野暮ったさ
- キャスト・キャラクターの両方に通じるコンテキスト
しかし、差別化要因をいくつか挙げたところで、冒頭の疑問に答えることはまだできていません。 答えは結局言語化できるようなものではないんじゃないか?とも思い始めています。
いかさこさんが、24日のAdvent Calendarで言及した キラキラした "何か" 。 わたしがずっと探し求めているのは、その "何か" の正体なんだと思います。
とは言いつつも、「言語化できません」で終わってしまっては今回記事を書く意味が無いので、2点だけ、最近考えたことを共有したいと思います。
リフレインの物語
μ'sの物語における、もっとも大きな伏線の解決とは、テレビアニメの第13話で、3人から9人へとメンバーを増やしたμ'sが、始まりの曲 START:DASH! を歌ったステージにあったのではないかと思います。
言うまでもなく、この状況自体が第3話の誰も観客のいなかったステージの繰り返しでもありますし、ダメ押しとして、第3話で語られた穂乃果の宣言がモノローグとして印象的に挿入されます。
このまま誰も見向きもしてくれないかもしれない。
応援なんて全然して貰えないかもしれない!
でも、一生懸命頑張って、私たちがとにかく頑張って届けたい!
今、私たちがここにいる、この思いを!
そもそものことを言えば、この文章は、ラブライブ!のプロジェクト開始当初に ウェブサイトに掲載されたプロローグの文章 でもありました。
また、2期の第13話、解散を決めたμ'sが屋上でこれまでの活動を振り返った後、穂乃果の目に映ったのは、1期のいちばん最初に "やり遂げよう" と誓った2年生3人の姿でした。
ねえことりちゃん、海未ちゃん。
……やり遂げようね、最後まで。
直後に流れる Oh, Love & Piece! に、当時目頭を熱くしたファンの方は多いのではないでしょうか。
上記以外にも、2期の第12話では1期のオープニング曲の背景がラブライブ!本戦のステージだったという伏線を回収し、オープニングと同じ衣装でステージに立つμ'sの姿が描かれました。 テレビアニメの1期第8話・2期第9話で挿入された 僕らのLIVE、君とのLIFE や、 Snow halation のステージも、アニメ化される前からラブライブ!を応援してきたファンにとっては、これ以上ない憎い演出として目に映ったことでしょう。
現実においては、μ'sファイナルライブのステージで初披露された MOMENT RING に触れないわけにはいきません。 これまでのアニメにおける各メンバーのキャラクターを象徴するポーズや、シングルのMVにおける特徴的な振り付けなどが次々に披露され、6年間のμ'sの姿が散々目に焼き付いているファンにとって、それはまるで 死の直前に見る走馬灯 のようでもありました。 MOMENT RING のステージを肉眼で見たあの瞬間以上に、μ'sを好きでいてよかったと思ったことはありません。
ラブライブ! μ'sファイナルシングル「MOMENT RING」
- アーティスト: μ’s,畑亜貴,増谷賢
- 出版社/メーカー: ランティス
- 発売日: 2016/03/02
- メディア: CD
- この商品を含むブログ (8件) を見る
アニメの演出にまで踏み込んでみると、ここまでに挙げた物語上大きな意味を持つ "リフレイン" 以外にも、随所随所にコンテキストを感じられるような小さな "リフレイン" が隠れていることがわかります。
【ラブライブ!MAD】μ'sic → Touch me【LOVE LIVE!】
このMADは、有志の方が制作されたものですが、言葉を尽くして説明するよりもこれを見た方がよっぽど納得していただけるかと思いますので、ここで紹介させてください。 *1
ところで、ここで挙げた "リフレイン" とはμ'sの物語だけが持つ特徴なのでしょうか? わたしはそうは思いません。 Aqoursの物語においても、 "リフレイン" を意識した演出はいくつか登場しています。
ひとつは、第12話における、東京から沼津に戻る途中、千歌が羽を拾うシーン。
この羽は言うまでもなく、μ'sのメンバーがテレビアニメ2期のED曲 どんなときもずっと で最後にキャッチしていた羽に違いありません。 μ'sが何も残さなかったことの意味を千歌が理解したからこそ、羽はあの場所に舞い降りた。 そのことは、これまでも散々語られている通りです。
もうひとつは、第13話における MIRAI TICKET の導入部分。
Aqoursが歩んできた道のりを観客に紹介するミュージカルパートは、誰にとってもわかりやすい繰り返しの演出として理解されたことでしょう。 この演出については賛否両論ありますが、そのあたりは近日中に 渡辺曜 をフューチャーした記事を執筆し、その中で言及する予定でおります。
* * *
ここまでで、μ'sにもAqoursにも共通して、演出的に強く意図された形での "リフレイン" が頻出していることを説明しました。
エモはコンテクストから生まれる という原則に則るならば、ラブライブ!とは繰り返しの構造を活用することにより、観客の 感情的な高まりを最大化しようとしており、なおかつそれを自覚的にやっている ということが言えるのではないでしょうか。
慣性やしがらみからの脱却
劇場版 ラブライブ! The School Idol Movie では、μ'sの解散という選択と、周囲からの期待の狭間で悩むメンバーの姿が描かれていました。
昨年の12月、ファイナルライブの存在が発表されてから、今年 "その日" を迎えるまで、一体何をするべきなのか、どのような気持ちで迎えるべきなのか、わたしたちもまた、劇場版のμ'sメンバーが悩んでいたのと同じように考え続けていた気がします。
結局大した答えは出せなかったけれども、わたしは、なんだかそんな風景自体がラブライブ!の世界と繋がっているみたいで、なんだか嬉しく思ったことを覚えています。
zephiransasさんはご自身の記事 で、劇場版の 「跳べる」 というセリフは、μ'sとしての活動が終わったあと、これからも続いていくであろう穂乃果たち9人と新田さんたち9人の活動を後押しする言葉だと解釈しておられました。
わたしが 「跳べる」 という言葉に抱いた印象はそれとは少し違っています。
「跳べる」 という言葉は、ラブライブ!のコンセプトを端的に表現しているのではないかとわたしは思っています。 それは、慣性やしがらみに縛られずに 本当にやりたい!楽しい!と思えることを全力で続けること ではないでしょうか。
劇場版において穂乃果たちは、自分たちで決めた 「μ'sを終わりにする」 という約束と、周囲からの 「活動を続けてほしい」 という期待の板挟みになり、身動きがとれなくなってしまいました。
今まで自分たちがなぜ歌ってきたのか どうありたくて何が好きだったのか。
それを考えたら、答えはとても簡単だったよ。
女性シンガーが示唆した "答え" とは、「楽しかったからこそ、スクールアイドルをこれまで続けてこられた」ということに気づき、 スクールアイドルに憧れた当初の原点に立ち返る ことだったのではないでしょうか。
物語の後半で、穂乃果はひとり悩みながらも、こうした女性シンガーからの助言もあり、 "本当に楽しいライブ" へとたどり着きます。
それは、μ'sを取り巻く しがらみからの脱却 であり、 誰も見たことのない点X へと視聴者を連れて行く、まさにラブライブ!らしい結論でした。
しがらみからの脱却という点で言えば、μ'sがファイナルと銘打ったライブを迎えられたこともそうです。
商業的に利益を生むことを考えるなら、ミュージックステーションや紅白歌合戦への出演を果たしたモンスターのようなグループが、人気の絶頂で解散するなんていうのは、本来あり得ない話なんじゃないかと思います。
更なるアニメシリーズを作るなり、ライブを続けるなりすれば、人気のピークこそ過ぎてしまうにしても、きっともっと稼げるに違いないのに。 それでも終わらせたということは、μ'sというユニットのゴールが、単なる利益以外の別のところにもあったことを示す、何よりの証左ではないでしょうか。
* * *
ところで、μ'sにとってのしがらみが、どんどん大きくなっていく周囲の期待であったとするならば、Aqoursにとってのしがらみとは、 何をするにしてもμ'sと比較される、悪い意味での注目度の高さ にありました。
特に、プロジェクトが始まった当初は、Aqoursがまだほとんど目立った活動をしていないにも関わらず、ラブライブ!つながりで既に多くのファンを得ていることに対し、批判する声も見られたように思います。
ただ、個人的な意見として、そうした批判の声すらも、更なる力に変えていくだけの底力を持ったコンテンツがラブライブ!だと思っています。
仮に、μ'sにとってのハードルが、キャストやプロジェクト自体の 知名度の低さ であったとするならば、Aqoursにとってのハードルとは、現実の実績に見合わない 高すぎる知名度 にあったと言えるでしょう。
そのハードルの高さこそが、逆説的に Aqoursをラブライブ!の第2の主人公たらしめている ように思われてならないのです。
現実におけるAqoursの立ち位置を知ってか知らずか、テレビアニメの展開においても、当初Aqoursは μ'sの背中を追い続けていました 。 μ'sがあれだけの人気を集めるスクールアイドルになれたのは何故なのか? ーー その理由をあの手この手で見つけようとしていたように思います。
恋になりたいAQUARIUM のCW曲、 届かない星だとしても では、そんなAqoursの心情が歌詞によく表されています。
憧れるってステキだよ?
とにかくぜんぶ真似したい
ラブライブ!サンシャインの第12話で、Aqoursはμ'sが音ノ木坂に何も残さなかったことを知り、μ'sの背中を追いかけるこれまでの道とは違う道へと走り始めました。
この物語の先で、Aqoursが一体どんな点Xへとわたしたちを連れて行ってくれるのかは、 きっと、これからのラブライブ!プロジェクトが教えてくれることでしょう。
Aqoursが与えてくれる視点
これまで、ラブライブ!の物語とはすなわち、μ'sの物語でした。 だから、ラブライブ!について語ることというのは、μ'sについて語ることとほぼ同義でした。
しかし、Aqoursが本格的に活動を始めたいま、わたしたちは、ラブライブ!というプロジェクトを μ'sとAqoursの両面から観察できる ようになりました。
Aqoursがμ'sというしがらみから離れ、自らの道を確立していくにつれ、2つのグループに共通する "ラブライブ!性" とでも言えるものが、今後じわじわと見えてくるようになるのでしょう。
ラブライブ!は、点から線になりました 。
今後、ラブライブ!を構成する点がどんどん増えていくならば、きっと点や線だけでなく、平面や立体としてラブライブ!を見ることも可能になるでしょう。 そうなったときようやく、μ'sの歌った SUNNY DAY SONG のコンセプトが現実のものになったと言えるようになるのではないでしょうか。
おわりに
この記事では "リフレインの物語" 、 "慣性やしがらみからの脱却" という2つの視点で、ラブライブ!のラブライブ性とはどこに由来するのか?という疑問に答えようと試みました。 これまでの試みがそうであったように、やはりこの記事も、それだけではラブライブ!の本質には迫れないという結論になってしまうのですが・・・。
ただ、Aqoursというユニットが本格的に活動を始めたことで、その分だけ、μ's=ラブライブ!だった時代よりも多面的な考察ができるようになるだろう、という今後の展望を示しました。
* * *
最後に、 Angelic Angel からいちばん好きな歌詞の一節を引用させてください。
時間はとめられないと知って
君と早く会いたかったよ
届けたい言葉が音に溶けて Call Angel
この歌詞は、プロジェクトの途中からμ'sのことを知り、アニメを見たりイベントに足を運んだりするようになったファンの心情に驚くほど一致すると思うのです。
実際、ファイナルライブの現場に、プロジェクトの開始当初からμ'sのことを知っていたファンの人ってどのくらいいたのでしょう。 きっと数えるほどしかいなかったんじゃないかと思います。
それ以外の人にとって、μ'sはきっと何よりも 「早く会いたかった」 存在だったのではないでしょうか。
こんなに早くファイナルの日が来るのなら、パシフィコの3rdライブに行きたかった。 アニメの1期をリアルタイムに見たかった。 アニメ化の喜びを分かちあいたかった。 1stユニットシングルやソロシングル発売当初のライブを生で見たかった。 今はない横浜BLITZで、伝説の始まりに立ち会うファンのひとりでいたかった。
そういう願望を少なからず抱いていたファンにとって、 Angelic Angel の歌詞はあまりにも直接的に響きました。 *2
そんな切なさや楽しさを折り込みながらも、5万人の思いが音に溶けていった 2016年4月1日 。 あれから8ヶ月余り、まもなく2016年が終わろうとしています。
Aqoursと、それぞれの道を歩み始めたμ'sのキャスト9人の活動が今後も輝かしいものでありますように。 そんな願いを込めつつ、今回は筆を置きたいと思います。
絶対に横浜アリーナに行こうナ。 *3 来年も何卒よろしくお願いいたします。
* * *
12/27 10:45 追記
ブックマークコメントに関する言及をさせてください。
ぱいちゃんとえみつんの2人による「μ'sは解散じゃない」という最近の言及があるのに、「解散」という言葉を使っているようではラブライブ!の事は深く理解できないのではないか
はてなブックマーク - kei-anのブックマーク - 2016年12月27日
これ読んだ瞬間に「言葉遣いが迂闊だった」と思ったのですが、ただ、個人的に "解散" という言葉を使うのが「悪」というムードもどうなの?という気持ちがあります。 少なくとも、テレビアニメの展開においては、9人は "μ'sはおわりにします" と言っているわけで、それは解散以外の何物でもありませんよね。
現実の9人の関しては、たしかに新田さんやPileさんが解散を否定するような発言があったのは事実です。 また、そういったマインドによって救われるファンが多数いるのも承知しています。 わたし自身、μ'sが復活して、今度こそ潮風公園で生の LONELIEST BABY を歌ってくれたら・・・と思ったことは数え切れないくらいありますし。 一方で、三森さんはラジオ等で「解散」という言葉をストレートに使われていたようにも記憶しています。
もちろん、デリケートな話題ですし、この言葉を使うのは避けられるなら避けるべきだったと反省しています。 ただ、言葉狩りのごとく "解散" の言葉を避けようとするとも、逆に本質から離れてしまう恐れがあるのではないでしょうか。
わたしたちはいつかμ'sの活動休止の事実から時計の針を進めなければならない、じゃなければラブライブ!的ではないという個人的な思いもあります。
大事なのは、μ'sのこと、μ'sを好きだった事実を忘れずに前に進むことだと思います。 そのことは、4月1日に起こったことを「解散」と言おうが「活動休止」と言おうが変わらない、というのがわたしの意見です。
もちろん、「お前ラブライブ!ぜんぜん理解してねーよ!」という反論自体は大歓迎です。 よろしくお願いいたします。