FLYING

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好きってなーに?

いつでもどこでも四六時中好きなわけじゃなくて、長い間近くに居たりすると、ときには離れたくなることもある。でもしばらく離れてみると、どうにも淋しくなって自然と元の距離感に戻る。いや、恋愛とかそういう話じゃないんだけど、こういうのも好きって言えるのかなって、そんなことを疑問に思った。たぶん、テストもレポートも終わったせいで、思考が空回りしてる。

効率的にテスト勉強

出題範囲や問題の傾向など、全員が知っておくべき情報はクラス専用のWikiで共有。さらに、過去問や見つからない配布プリントなど、必要だけど手元にないものは、有志がスキャンしてアップローダに上げる。過去問を解いていて分からないところがあれば、メッセで頼れるクラスメートに質問し、分からなければみんなで悩みながら答えを探す。ネットというツールを用いれば、テスト勉強もここまで効率的になれる。もちろん、過去問の著作権とか教師の皆さんに対する配慮とか、倫理的な問題は多々あるわけだが。

某所にアップされた予想問題を数学教師が発見し、そのあまりの的中度に既に出来上がっていた問題を慌てて書き換えた、なんてエピソードがあるウチの学校だからこそできることかもしれない。普通の学校じゃあ、ここまで徹底したネットワークの活用は難しいかなあ。

評価したい、されたい話

ネットって凄い。そこらじゅうに「これはすごい」が溢れているし、そこらじゅうに「これはすごい」を生み出す人がいる。プログラミング大会で知り合った人たちがウェブサービスを発表して一躍有名になっているのを見て、本当にそう思った。無論、有名っていったってネットのごく一部でしかないし、知っている人も全人口に対してみたらほんの僅かなのかもしれない。それでもオレからしたら遥かな雲の上だ。手が届きそうな気がしない。

「遥かな雲の上」って書いたけど、もしかしたら、意外と雲の上は低い場所にあるのかもしれないとも思う。単純に自分の身近な人がそこに行ったから、という理由もあるけど、雲の上に行けない人と雲の上にいる人を隔てるものは、実は「やるかやらないか」という単純な違いに集約されるんじゃないか、という思いがあるからだ。

そのウェブサービスを作った3人は、オレが参加した大会でも進んで人に話しかけていたし(オレが彼ら*1と知り合えたのも、彼らがコミュニケーションに長けていたからだ)、そうして知り合った人々に自らのアイデアを披露して、一緒にウェブサービスを作ろうという提案を持ちかけていた。他人に顔見知りして、ろくに話もできなかったオレとはだいぶ違う。そして彼らは、そのアイデアを机上の空論で終わらせなかった。たとえ地理的な制約があろうとも、ネットという道具を有効に活用し、アイデアを形にすることを諦めなかった。むしろ、その制約を開発のモチベーションに変換していたようにさえ思える。

絶望から嫉妬へ

ネットはあらゆる障壁を取り払った。情報を発信する人間も、受信する人間も、今やその間にある距離を気にしようともしない。今まで埋もれていた才能が発掘されるようになったし、どんな人間でも、身分を気にせずに匿名で主張ができるようになった。昔は自分の足を動かさなければ手に入れられなかった色んなものが、机の前を動かさずして閲覧できるようになった。そしておそらく、年齢の違いさえも問題にはならない。身分ではなく、やったことで評価されるようになる時代が来た。今や陳腐化してしまったWeb 2.0というキーワードが表していたのはたぶんそういうことだ。

でも、それは小さなコミュニティの中でふんぞり返っていた人間にとっては不幸だったかもしれない。今では学校の中で一番になってもそんなに自慢にはならない。ネットを見ればもっと凄い人がいくらでもいるからだ。上を見れば際限がない。いくら自分が進歩しても、まだまだ雲の上には手が届かない気がしてしまう。小さな絶望。これからの自分の人生が、このまま何も起こらずに終わってしまうのではないかという恐怖。

その絶望や恐怖が嫉妬に変わってきたのは最近かもしれない。「嫉妬」という感情は決して綺麗な表現じゃないと思うけど、絶望しているよりはマシなように思える。嫉妬するということは、諦めているわけじゃない。「オレにだって」という気持ちが少しでもあるわけだから。「うらやましい」とも違う。「うらやましい」という言葉だけでは表せない何かがあるのだ。オレもそこへ行きたいという、向上心のようなものが。つまり、「クオリティの高さに絶望」するよりは「作者の人気に嫉妬」した方が、ちょっとだけ前向きな気がするのだ。

もっと評価したい!

いずれにせよ変わらないことがある。それは、みんなが素敵って思ったものは評価されるだろうし、ユーザーはいつだって自分をわくわくさせてくれるような何かを探しているということ。そういう何かがたくさん見つかるようにインターネットは進化してきたし、きっとこれからも進化していくだろう。もちろん、いいものがたくさん生まれるためには、ユーザーの評価が何らかの形で作り手に伝わらないといけない。そうやって生まれたのが、「はてなスター」を始めとした色々な仕組みなんだと思う。

何か素敵なものを見つけたら、その作者に何らかの形で「ありがとう」を伝えたいと考える。それがまだ有名になっていないものならば、「もっと評価されるべき」というタグを付け加えてもいいし、コメントするのが躊躇われるならば、はてなスターをぽちっとクリックしてもいい。喩えるならば、小さな芽に水をあげるようなものだ。そしてできることなら、その芽が綺麗な花を咲かすまで見守っていたい。

まだまだ零れ落ちてしまう作品はあるだろうけれど、「もっと評価する」ための環境は確実に整ってきた。だから、ユーザーとしては積極的に評価をしてあげたいと思う。素敵だと思ったものには惜しみないはてなスターを。後で読みたいと思ったら軽い気持ちでブックマークを。そうやって評価が即座に作り手に伝わるようになれば、世界はもっとクリエイティブになれるはずだ。

もっと評価されたい!

この一言を書きたいがためにずいぶん引っ張ってきたけど、もう隠さない。オレはもっと評価されたい。たくさんのはてなスターとかブックマーク数とか、そういうものに憧れていたのは紛れもない事実だし、人気エントリの一覧を目にするたびに感じた思いの正体はたぶん、評価されたいという願望に違いないから。でも忘れちゃいけないのは、何もないところから評価が沸いてくるわけじゃなくて、まず誰かが素敵だって思うようなコンテンツがあって、それを評価したいと思った人がいたということ。

「ただ作るのが楽しいから」という理由でどんどん作っては発表して、そうしていたらいつの間にか評価されてました!みたいなのが本当は一番カッコいいと思う。でも、オレはそんなにカッコよくはなれない。やっぱり評価されたいという気持ちは捨てきれないし、評価されたいから何か素敵なものを作りたいという本末転倒な考えになってしまったりもする。作ることがおもしろくないわけじゃもちろんないけど、「下心あるでしょ?」って聞かれたら、やっぱり頷いてしまう。

でも、それって本当に悪いことなんだろうか。頑張って作ったものには何らかのフィードバックが欲しいと思うのは当然のこと。ならば、それを一歩進めて、フィードバックが欲しいから頑張って作ってみる、という考えもアリなんじゃないか。もちろん、何も作っていないのに評価だけを求めるのは間違っているだろうけれど。

とりあえずできることを

結局、評価されたいという気持ちがあろうがなかろうが、やることは変わらない。自分が好きなものを作ること、好きなものを作るために必要なスキルを身につけること、そして、アイデアの元になりそうなものをどんどん吸収すること。たとえば本を読んだり、技術系のサイトを読んだり、自分の作りたいものに近いモデルを探してみたり。やるかやらないかで言うなら、やるべきなのだ。

「だったらこんなエントリを書いてないで、さっさと上に書いたようなことをすればいいじゃん!」って言われそうだけど、そこがオレの中途半端なところで、Winsockについて調べていたのに、いつの間にかニコニコ動画を見ているような謎現象が起こる所以でもある。ただ、ニコニコと言っても暇つぶしやクオリティの無駄遣いだけではなくて、「ニコニコ動画講座」みたいな勉強になる動画も少なからずあるから侮れない(個人的には「ニコニコ動画講座」もお勧めだけど、それはまた別の話だ)。

重要なのは「やることを躊躇わない」ことだと思う。勉強とかそういうことだけじゃなくて、たとえば知らない人とも進んで話をしてみるとか、積極的に勉強会のようなイベントに出かけてみるとか。もう、非コミュという言葉を隠れ蓑にして、嫌なことから目を逸らし続けるわけにはいかない。人と人の繋がりが小さな革命を起こす、そういう事例を間近で見てしまったわけだから。

*1:「彼ら」って偉そうだなぁと思いつつ、他にいい表現が思いつかない

何度でも 何度だって

<中二病>ときどき色んなことがよく分からなくなるときがあって、そういうときは適当にあがいてみたり、あるいは何もしないでじっと状況が好転するのを待ってみたりする。『よく分からなく』なっている間は、他人と話をしていてもどこかズレているし、外との境がぼんやりしているし、何がしたいのかもよく分からない。別になにか差し迫った不安や締切があるわけではないけれど、漠然とした圧迫感だけがそこにあって、もしかしたら『よく分かっている』ときなんて本当は存在しないのかもしれない。

オレだけがずっと立ち止まったままで、周りの人はどんどん先に進んでいるような印象を受ける。ひょっとしたらただの錯覚かもしれない。でも今、オレが何もしていないのは紛れもない真実だから、他人が進んでいるかどうかはともかく、オレが立ち止まっているのは間違いないんだと思う。もうスタートダッシュではだいぶ遅れてしまった。どうすれば挽回できるのか、頭の中がぐるぐる回っている。</中二病>

最近の漫画ってエロいよな

「最近の漫画ってエロいよな」と感じる要因に関する考察。

  1. 最近の漫画がエロくなった(微妙な規制でチラ度アップ)
  2. 最近の読者がエロくなった(読み手にオタクが増えている)
  3. 少年漫画を読む奴らは昔からエロかった(永久不変の真理)

言葉は5ive Star

まともな自己表現など何ひとつできないオレが言うのも変な話だけど。たぶん、強い感情は表現物に大きな影響を及ぼす。たとえその対象が絵だろうと、音楽だろうと、言葉だろうと、この世で最も感情と感情から遠い創作物であるプログラムのソースでさえも、たぶんきっと。

こんなことを考えたのは、なんとなく某お絵かき掲示板を覗いていたときで(もちろんROM専だが)、たとえ(こう言っちゃ失礼だが)描き手に「魅せる」だけの技術がなかったとしても、キャラクターに対する強い感情さえあれば、描かれた絵は鋭い訴求力を持つようになる、という事例をいくつも目の当たりにしたからで。「感情が創作に影響を及ぼす」っていうと至極当然のことのようにも思えるけれど、オレが言いたいのはもっと直接的なことで、要するに感情の力は、ときに技術の稚拙さすらも凌駕するくらいのインパクトを受け手に与えることがある。一言で言えば「愛だよ」。

つまりこのエントリで言いたいことは:17年の人生で初めて肉じゃがを作ったはいいが、勢い余って食べ過ぎてしまった。別にそこまでおいしかった訳でもないのに。

小中学校の「総合的学習」はどうしてあんなにも創造的じゃなかったのか

小中学校の「総合的な学習の時間」に文科省が子供にやらせたかったことを、今になってやっと理解した。教科書の内容を教えるだけではどうしても習得させることのできない能力、例えば自己アピール能力とか論理的思考力とか、そういったものを身に着けさせたかったんだろうな。「自分で考える力をつける」なんてお題目は昔から何度も耳にしていたけど、その言わんとすることを本当に理解したのはごく最近の話だ。

その高尚な目的を理解できなかった当時のオレは、与えられたテーマに興味を持つこともできず、ギリギリになってから取ってつけたような筋道と結論を用意して発表していたように思う。同じグループの人間も、そこまで精力的に授業に取り組んでいたわけじゃなかったから、出来上がるものもやっぱりそれなりで、取り立てておもしろい内容もなかった。もし当時の自分が、今と同じくらいの能力とモチベーションを持っていたならば、発表会は全く別のものになっていたのかもしれない。

まだ小さい頃からプレゼンを経験させて、将来国際競争に耐えうるだけの人材を作りたいって言う考えは十分理解できる。ただ、小学生や中学生にそれをやらせて、目的に適うだけの成果を発揮できる生徒がどれだけいるのかはちょっと疑問だ。どうせやらせるなら、「社会福祉」とか「戦争の是非」とかいう小難しいテーマではなくて、子供でも興味が持てるジャンルで考えさせてみるべきだったと思う。たとえば、グループごとに新しいビデオゲームの内容を考えて発表するとか。もちろん、そういうことをやってる学校も最近はあるんだろうけど。

つまり言いたいことは:

今「総合の時間」を惰性に過ごしている多数の生徒が、自分から進んで発表するぐらいのモチベーションを持つことができたなら、ゆとり教育の様相も全く変わってくるんじゃないかということ。プレゼンの意義を小学生や中学生に教えるのは非常に難しいことだとは思う。でも、分厚い数学の冊子*1を楽しそうに眺める小学生の妹の様子を見る限りでは、昨今の子供達の能力が低下しているってことはないように思える。ゆとり世代もそう捨てたもんじゃないなんて、楽観的すぎるだろうか?

*1:高校で配られた6〜700ページの「数理重点化用副読本」。内容は微積・行列・ベクトルなどで、オレにも理解できるかどうか怪しい。もちろん、妹も理解して読んでいるわけじゃない