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夏戦争

知り合いがみんな『まんま「ぼくらのウォーゲーム」の焼き直しだ』って言ってたけど,あんまりデジモンを見てこなかったオレにはよく分からなかった。そして,少なくともデジモンをよく知らない人にとっては,「サマーウォーズ」はおもしろい映画だった。

もちろん,『純粋さ』という意味では「時をかける少女」を越えられるはずもないんだけど,それは必ずしも「サマーウォーズ」が「時かけ」よりも劣っていたという理由には繋がらないように思う。映画においてある種の『純粋さ』を追求するならば,重要な登場人物は少ない方がいいに決まっている。だが細田監督はそうしなかった。それは,登場人物を限定した「時かけ」的なやり方を意図的に外していったからではないだろうか。

宮崎駿を越えられる人材は細田守しかいない,といった文脈で細田監督のことが語られることがあるけれども,それが本当に正しいのかどうかはオレには分からない。しかし,重要な登場人物を常に何人かに限定したセカイ系的なやり方でスタジオジブリ作品のような幅広い層に受け入れられる映画を作れるかといえば,そうではないと思う。だから,細田監督は物語の純度をある程度犠牲にしようとも,これまでとはまた違ったアプローチで映画作りに取り組まなければならなかった。「サマーウォーズ」を見てオレが感じたのは,そういうことだった。僕らはいつかは宮崎駿を越えなければならないのだ,と。

まぁそんなことはどうでもよくて,重要なのは,「サマーウォーズ」が獣耳の素晴らしさを大衆に啓蒙することのできる数少ないアニメ映画のうちのひとつであるということだ。この映画に登場する夏希先輩のアバターデザインを見て何も感じなかった人がいるだろうか?いやいるはずがない(反語的用法)。まだ「サマーウォーズ」を見ていない人は,劇場に行って獣耳の素晴らしさを再認識するべきだと思う。

オレが昔から主張している持論のひとつに,「キャラクターデザインがいわゆる萌え(「けいおん!」とかそういうの)から遠いものであればあるほど,女の子キャラの魅力のピーク値はより大きく感じられる」というものがあるんだけど,「サマーウォーズ」にも同じことが言えるように思う。もっと端的に述べるならば,「猫の恩返し」で猫化した吉岡ハルがやけに可愛く思えたのとだいたい同じってことです。

言いたいことは全部書いたのでおわり。