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身近に触れる死・その2

月曜日、祖母が亡くなった*1。先週の水曜日、体調不良のために入院してからすぐのことだった。今思えば、日曜日にカラオケなんて行ってないで、ちゃんと家族と祖母を見舞いに行けば良かった。あの時はまさかこんなすぐに亡くなってしまうとは思わなかったけれど、後悔先に立たずの言葉どおり、世の中には後からではどうにもならないことがあるのだ。

月曜日、連絡を受けて駆け付けた時にはもう祖母の意識はなく、結局その日のうちに亡くなってしまった。だんだんと数値が下がっていく心電図を見つめながら、一旦0になった心搏数がこちら側に戻ってこようと何度か脈動したのが印象に残っている。「もう存分に頑張ったよ」。心搏数の低下を警告する電子音が響き、心電図のグラフには平坦な線のみが残された。祖母に呼び掛ける母の声が耳に痛かった。

まだ覚えている祖母との記憶が1つある。その背景には奇麗な夕焼けが広がっていた。それは保育園の帰りにいつも寄った、線路沿いの駐車場の記憶。オレは保育園から帰るたび、迎えに来た祖母に電車が見たいとねだり、駐車場で電車が来るまで持ち続けたのだった。またある時は線路の上に架かった小さな歩道橋に上り、必死に眼下を通り過ぎる電車の運転手に向かって手を振った。運転手が警笛を鳴らして答えてくれることがあると、オレはたまらなく嬉しくなって祖母に喜びを伝えた。そんな無邪気なオレの顔を見て、祖母は一緒に喜んでくれた。今ではその記憶の大部分は失われてしまったけれど、未だにこのエピソードは祖母の記憶と共にある。そしてきっとこれからも。

晩年の祖母は、肺の病気のために酸素吸入器を付けるようになり、一度入院してからは自由に歩くこともできなくなった。腰は以前に比べて一段と深く曲がり、まるで人生の苦労を示すようだった。一階奥の部屋で淋しくテレビを見ている祖母の様子を見ては、オレはどうしようもなく悲しくなったりした。祖母は祖父とは違って趣味というものを持っていなかったから、一月に祖父が亡くなってからは日毎に元気をなくしていくように見えた。今になってオレは思う。どうしてあの時祖母の皿洗いを手伝ってあげられなかったのかと。少しは家事をやったほうがリハビリになると思う部分もあったけれど、同時に自分がサボりたい気持ちがあったのも事実だ。今こうやって後悔する自分の思いも単なるエゴに過ぎないのかもしれないけれど、できることなら祖母に謝りたい。

オレが祖母と過ごした時間は、母や他の親戚に比べれば微々たるものだ。でも祖母との間にあった関係は唯一のもので、祖母も自分のことを結構信頼してくれていた。だからこそ、オレは晩年の祖母を直視することができなかったのかも知れない。弱っていく祖母を見たくないという自分勝手な感情のために。

明日(日付では今日だが)は告別式だ。だから、祖母が祖母のままでいられるのは今日が最後になる。オレは明日、一体どんな想いを持って祖母を見送ればいいのか、まだよく分かっていない。でも確かにあるのは、「ありがとう」と「ごめん」の気持ち、そして素直な「今までお疲れさま」の気持ちだ。先日死んだ頑固でわがままなじーさんに、一生付き合うことができたのは祖母くらいのものだろう。そう考えると本当に凄い人だった。

戦争を生き抜き、高度経済成長の中で懸命に働き、そして頑固な祖父と喧嘩しながらも一生を添い遂げた祖母。とにかく今は安らかに眠ってほしい。そして向こうでは喧嘩も程々で祖父と仲良くしてほしい。孫はこれからも頑張って生きるよ!もうちょっとやそっとじゃ死にたいなんて言わないからさ。

*1:「亡くなった」という表現はよそよそしい気がして好きじゃないけど、「死んだ」というのもどうも適切じゃない気がする。オレのボキャブラリーが少ないから妥協してこう書く