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FLYING

〈全日本・紀文豆乳飲料シリーズ「麦芽コーヒー」の500ミリリットルパックを扱う小売店が少ないことに遺憾の意を表明する会〉活動記録

小中学校の「総合的学習」はどうしてあんなにも創造的じゃなかったのか

小中学校の「総合的な学習の時間」に文科省が子供にやらせたかったことを、今になってやっと理解した。教科書の内容を教えるだけではどうしても習得させることのできない能力、例えば自己アピール能力とか論理的思考力とか、そういったものを身に着けさせたかったんだろうな。「自分で考える力をつける」なんてお題目は昔から何度も耳にしていたけど、その言わんとすることを本当に理解したのはごく最近の話だ。

その高尚な目的を理解できなかった当時のオレは、与えられたテーマに興味を持つこともできず、ギリギリになってから取ってつけたような筋道と結論を用意して発表していたように思う。同じグループの人間も、そこまで精力的に授業に取り組んでいたわけじゃなかったから、出来上がるものもやっぱりそれなりで、取り立てておもしろい内容もなかった。もし当時の自分が、今と同じくらいの能力とモチベーションを持っていたならば、発表会は全く別のものになっていたのかもしれない。

まだ小さい頃からプレゼンを経験させて、将来国際競争に耐えうるだけの人材を作りたいって言う考えは十分理解できる。ただ、小学生や中学生にそれをやらせて、目的に適うだけの成果を発揮できる生徒がどれだけいるのかはちょっと疑問だ。どうせやらせるなら、「社会福祉」とか「戦争の是非」とかいう小難しいテーマではなくて、子供でも興味が持てるジャンルで考えさせてみるべきだったと思う。たとえば、グループごとに新しいビデオゲームの内容を考えて発表するとか。もちろん、そういうことをやってる学校も最近はあるんだろうけど。

つまり言いたいことは:

今「総合の時間」を惰性に過ごしている多数の生徒が、自分から進んで発表するぐらいのモチベーションを持つことができたなら、ゆとり教育の様相も全く変わってくるんじゃないかということ。プレゼンの意義を小学生や中学生に教えるのは非常に難しいことだとは思う。でも、分厚い数学の冊子*1を楽しそうに眺める小学生の妹の様子を見る限りでは、昨今の子供達の能力が低下しているってことはないように思える。ゆとり世代もそう捨てたもんじゃないなんて、楽観的すぎるだろうか?

*1:高校で配られた6〜700ページの「数理重点化用副読本」。内容は微積・行列・ベクトルなどで、オレにも理解できるかどうか怪しい。もちろん、妹も理解して読んでいるわけじゃない