FLYING

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夏休み前はやっぱり「魔女の宅急便」

全ての人間は、原理的に空に憧れる。

宮崎駿ジブリ作品というと、「風の谷のナウシカ」や「天空の城のラピュタ」など、自然の大切さや争いの無為さを説教くさく伝えるものが多いけど、こと「魔女の宅急便」に関しては、そういう説教くささは一切なくて、ただ単純に、前に進もうとする少女の生活を描いている。

この映画の登場人物はみなどこか憎めなくて、優しさに溢れている。だから、キキは間違いなく「やさしさに包まれて」いるんだろう。でもその一方で、他人の些細な言動で落ち込んでしまったりとか、思うようにことが運ばなくて、ブルーな気分になってしまうこともある。そういうときには、一体どうやって元気になればいいんだろう?

前も書いたことだけど、森のお姉さんの「描けなくなったときの話」は、実際に落ち込んだときに実践できる考え方だ。今風に言えばライフハックか。とにかくジタバタして、それでもダメなら何もしないで気を紛らわす。自分から何かをやりたくなったときには、もう、落ち込んでいた気持ちなんてどこかに吹っ飛んでいる。

「落ち込むこともあるけれど、私は元気です」。この映画を見終わった後にこの言葉を聴くと、また違った感慨がある。誰もが落ち込むことはあるけれど、それもまた前に進むために必要なひとつの過程なんだ。要は、そういうことかな。

ところで、この映画を見るたびに、オレは「ジジがキキと話せなくなる」(あるいは、キキがジジの言葉を理解できなくなる)という展開が、一体何を表しているのだろうと考える。映画を注意深く見ていれば、「魔女の使い魔は、異性と恋仲になると人間の言葉を話せなくなる」のだと理解できる。ただ、何故映画の最後にこの設定を持ち出したのか、どうしても不思議に思うのだ。そして、その疑問はいまだ解決していない。

それはキキがひとつ大人になったことの象徴なのか。それとも、気心の知れた仲間でもいつの間にか移ろい変わっていってしまうことを意味するのか。ジジがキキと話せなくなった原因も含めて、他の人の意見も聞いてみたいところ。もちろん、「この事象が映画において何らかの意味を持っているわけではない」という答えもありかな。